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新型コロナウィルスの感染拡大で、引きこもりワークをしています。
7歳と3歳の子どもたちと一緒に、かれこれ2週間ほとんど家で過ごしています。

みなさんは、子どもたちにどのように育ってもらいたいと思ってますか?

僕は、
・自分の頭で考えることができる。
・思いやりを持った、優しい人に。
育って欲しいと思っています。

娘とその友達がとてもとてもお腹が減っていて、お饅頭がひとつあったとき、それを半分ずつ分け合う時に、大きい方を差し出せるような。

人と分かち合える方が、人生は豊かになると思っているので、そうなって欲しいと思っているのですが、それは私の価値観で、大人になった時には、その価値観も含めて自分の頭で考え、選択できるようになって欲しい、と思って接しています。

実際にそういう場面を見せてくれるときもあって、それはとても嬉しく思うし、でも、同じかそれ以上に自分が得するような行動もします。

この接し方が難しくて、とても試行錯誤です。

僕が陥ってしまいがちなのが、
「大きい方をあげなさい」と「教え」、
「そのとおりに」娘が、大きい方を妹や友達に渡し、
「善くできねー」と「ほめる」という、
「教え」→「実行」→「ほめる」というパターン。

これを変えたい変えたいと、もだえ苦しんでいます。

どう変えたいかというと、
娘が妹に「大きい方をあげた」
僕が「そうするとけんかにならないで、仲良く楽しく食べられていいね。」
娘が「そういうこともあるのか。」と「学ぶ」(かもしれない。)
というパターンです。

今、「ほめて伸ばす」、「ほめる教育」というものも良く耳にします。
過去のスパルタ教育、詰め込み教育の揺り戻しなのかもしれません。
そして、ほめて伸びる、ということも実際あると思います。

が、

どうも、前者の陥りがちのパターンは、犬にお手やお座りを教えているのと被ってしまうんです。
そして、「ほめる」というフィニッシュで、「自分の教え方が良かった」という「手応え」や「フィードバック」で安心したい、という気持ちが自分の中に隠れているような気がして、ちょっと違和感を感じるのです。

そうじゃなくて、後者のように、娘が取った行動が人生を豊かにする要素があったときには、それを言語化して、共感する場面をできるだけ多く共有したい、と思っています。

「観察」→「行動」→「言語化・共感」→「学び」

子どもをしっかり「観る」時間と意識を持ちたいと思います。

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佐藤順一郎 オカゲサマ@伴走者

あなたがいるから、(おかげさまで)私がいる。 「横並びのかかわり」を研究しながら、いろいろなプロジェクトに首を突っ込んだり、突っ込まなかったりしています。

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